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 追悼〜敬愛する編曲家 北川祐 

 

 編曲家、北川祐さんが2019(平成31)年4月5日、永眠されました。

 私にとっての編曲の師であるとともに、そのまさに紳士としてのお人柄は、それ自体が人生の師であるとも言える方でした。

 

 SNSに訃報が流れた日、私は呆然となり、強烈に悔悟の情が湧き起こりました。何のご恩返しもできなかった、その一言に尽きます。あっという間に拡散していく悲報に、私は大した応答をすることもできず、ただ次々とお悔やみの言葉が重なっていくのを眺めていることしかできませんでした。早稲田大学ハイソサェティ・オーケストラのOBを中心に、それぞれに北川さんへのご恩の言葉が織り重なっていきます。私が、書き始めれば長くなるであろう思いの丈を書くことも憚られ、また端的に纏めるなどという芸当もできません。

 そこで、ここに遅ればせながら、つぶやきのようなものではありますが、師への追悼を述べ記させて頂きたいと思います。

 

 私が大学に入学した1980(昭和55)年、私は大きな編成のジャズに憧れてハイソに入部しました。高校時代から色々な楽器を織り重ねるアレンジというものに興味を持ち、当時所属していたマンドリン・オーケストラで、弦を中心としたアレンジを見よう見まねで始めたのでした。そして音楽の指向はどんどんジャズに傾いていき、大学に入学したときにはハイソに惹き寄せられるように入部することになったのです。

 その部室で初めて間近に聴いたビッグバンド・ジャズは、私がそれまでやってきた編曲の技術では造りようのない響きを持っていて、すぐさまそのスコアがどんなふうに書かれているのかに強い関心を持ったのでした。そして入部後落ち着いた頃に、当時の長屋部室の棚に無造作に並べられていたスコアを取り出し、調べてみたのです。そのスコアの多くに北川祐という署名がありました──これが北川さんのお名前を初めて知った時でした。そのスコアは、一見乱雑に見えながらもコードや音符に誤解が生ずることのない実に手慣れた譜面で、私はどうしてか譜面を読むことに緊張して、ズキリと身体の真ん中が痛んだのを憶えています。

 

 私はハイソで、やはり見よう見まねでアレンジを書き始めました。当時、まったく技術のない私が持ち込んだ譜面を快く演奏してくれたハイソの先輩や、同輩の仲間たちには今でも感謝しています。

 この当時、ビッグバンドのスコアが書けるようになる書籍など、一冊も刊行されていませんでした。体系的・総合的なビッグバンド・アレンジ法の本は、後年北川さんが1986年に著した「実用ジャズ講座-2 アレンジ編」、のちの「ビッグバンドジャズ編曲法」まで待たなければなりません。

 その在学中、北川さんがハイソの学生向けにボランティアで、音楽のしくみの今で言うワークショップを開いてくださいました。先輩方と一緒に、確か青山のスタジオだったか……に向かいました。この時はじめて、私は北川さんに直接お目にかかったのです。どんなに厳格で怖い人なのかと思いきや、実に穏やかで丁寧、学生を一切見下すようなところのない気さくな方でした。

 そのワークショップへの参加や、その後現役中に私がハイソにアレンジを書き続けていたことなどから、北川さんは私の名前を覚えてくださったようでした。私の方は、在籍していた4年間を通して、北川さんがハイソに書かれた多数の曲、中でもMy Cherie AmourやI’ll Never Smile Againなどなど……を何度も演奏させて頂いたのでした。

 

 大学を卒業してプロを目指した私は、自分の編曲技術に決定的な、基本部分が欠けていると自覚していました。ビッグバンドらしい芳醇で安定的な響き、そして響きに確信を持てる技術……。編曲というのは唯一の答えがあるわけではありません。管のヴォイシングひとつとっても、驚くほど多くの選択肢があり、何が正解なのかはとても分かりづらい。少なくとも当時、私は何の大した根拠も、精密な検証の機会もなく音符をまき散らしていました。そこで、それら私が求める響きを身をもって体現している北川さんに本格的に習いたいと思ったのでした。

 北川さんは本当に快く、実に良心的な教授料で引き受けてくださり、私は千葉県の自宅から川崎市まで、二時間半近くをかけて通い始めました。ヴォイシングの体系的な技術では、8小節ほどの課題を出され、次の回にはそれを精密に見てくれます。自分が書いた、臨時記号が抜けまくりの汚い譜面を、目を細めながら丁寧に解読されて、次々に間違いや改善点を指摘されました。また、そういった教えそのものだけでなく、北川さんのお部屋の棚にずらりと並べられた過去のスコア……、部屋を半周するその膨大さに圧倒され、あるいは参考音源が情報カードに全てインデックスされていて(当時パソコンはまだまだ普及していなかった)、曲名からすぐさまその曲を含むカセットテープなどが取り出せるようになっていたのです。いやぁ、正直憧れました。これがプロの編曲家か、と。

 その日の指導が終わると、北川さんは度々私に、出版社や編曲の依頼者に原稿や楽譜を届けさせました。ちょっと駅で渡す程度のことでしたが、ネットのない当時、それを無くしたらとんでもないことになるという緊張感もあって、私は逆によろこんで引き受けたものです。

 そのうち北川さんは私をリットー・ミュージックに紹介してくれ、音楽雑誌のための採譜や、当時実験的に始まったMIDIを使った音源づくりのお手伝い(6声による楽譜アレンジ)などの仕事を頂くようになりました。これは次第に音楽の仕事を増やしていく緒端として、また重要な実入りとして大変に有り難いことでした。後にリットー・ミュージックから拙著が初めて出版されることになったのも、この時代の北川さんからのコネクションあってのことです。

 そうして私は1987年に米国に留学することになりましたが、音楽の専門用語が英語で記された本を下さったり、実にご厚意あふれる気遣いをしてくださったおかげで、留学の大きな助けになったのでした。

 

 1989年帰国後も、何かと気に掛けてくださってお電話をしてくれたり、食事に誘って頂いたことも一度や二度ではありません。毎回場所を変えてセッティングしくれ、近況を聞いて下さったり、さまざまな音楽談義をさせてもらいました。巷に出版されている音楽書について、批判しあったこともあります。あれは何言ってるんだかわからない、だいたい文章に論理性がない、とか……(笑) 私も楽書を読むことには常に興味を持っているので、納得がいかないことや解らないことがあると、誰かに意見を求めたくなる気持ちになるのは全く同様でした。そうした考えや感想を共有できることは私にとっても有意義であり、何より北川さんが私を一人前として意見を求めてくれることは、大変嬉しいことでした。

 電話で記譜ソフトFinaleの操作方法を相談してくださったことも多くあります。1990年代の楽譜ソフトはまだまだ出来が不十分で、マシン・パワーも貧弱だったことから、上手くいかなくて立ち往生してしまうことが頻繁にありました。当初は楽譜ソフトの導入が先だった私が教える立場でしたが、そのうち細かいところを非常に突っ込んで完成度を上げようとする北川さんの質問に答えられなくなっていきました。

 

 北川さんも私も音楽教育の場での仕事をしてきましたが、そういった場での悩める話をさせていただいたこともあります。音楽教育はさまざまな面で、現代においてもまだまだ成熟していないと私は思います。人それぞれ色んな方法論を持っていること自体は必ずしも悪くないと思いますが、そこにはクラシック教育法300年におよぶ呪縛があったり、抽象表現である音楽に対する理論と教育法の交錯(倒錯?)もあったりします。音楽家がそうした仕事を並行してやっていく限り、創造と表現活動だけでは済まない社会問題にも振り回されます。そうしたことに北川さんご自身が自分の気持ちを吐露されることもありましたし、ここのところは私の問題に対してもとても親身になって心配をしてくれました。そういったとき、話だけでも聞いてもらいたいと思うのが、大先輩であり、”同業者”でもある北川さんでした。私はじゅうぶんに甘えさせてもらいました。

 

 2018年7月10日、東京・桜新町での私のライヴに北川さんはご夫妻で聴きにに来て下さいました。いつもと変わりないお元気な様子で、「なんだぁ、もっとハイソの連中とか来るのかと思ったよ」などと仰ってました。私はもっとハイソのSNSに積極的に宣伝すれば良かったと後悔しつつ、自分の音楽を聴くことが苦痛になってはいないかちょっぴり心配になりつつ、しかし何よりもご夫妻で足を運んでくれたことに大変有り難く感謝しながら演奏したのでした。奥様は私が北川さんにアレンジを習っていた20代の時から、あまり目立たぬよう珈琲を出して下さったりしたのが想い出されます。思えばそれからでも、もう30数年が経ちました。

 そしてその日が、私が北川さんとお会いした最後の日となってしまいました。

 

 私は本当に迂闊でした。このような悲報が突然やってくるとは本当に想像だにしていなかったのです。いつか何かしなければと思いつつ、それを今という時に結びつけることを怠っていました。100%お世話になりっぱなしの関係でした。

 私は父を亡くした時も親友を亡くした時も、その後ひと塊の後悔を心の奥に沈めたままにしていますが、全く学んでいませんでした。

 このやりきれない気持ちをどうすればいいのか見当もつきませんが、これから長く、深く、受けたご恩について考えていきたいと思います。

 

 音楽と人生の師に、心よりご冥福をお祈り致します。

 

 香取良彦

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